暮れゆくものを想う。
立秋の次候、七十二候は「寒蝉鳴(ひぐらしなく)」。
ひぐらしは夏の終わりに鳴くイメージがありますが、実は六月頃から鳴いているのだとか。
「カナカナ…」と鳴く声は涼感があり、暮れゆく夏を惜しんでいるよう。
我々は秋の訪れを楽しみにしますが、蝉は秋も深まればその姿を見せてはくれません。
その季節でしか会えないものがある。
その当たり前のことを、あらためて感じるのでした。
Ki-No-Otonai
vol.13
Risshū
2025.8.7 ― 8.22
まだ暑さ極まる頃ですが、なんと暦の上では秋。
この日から暑中見舞いは残暑見舞いに変わり
ます。
お盆はこれからというのになかなか実感は
湧きませんが、
季節は着実に前へ、前へ。
わずかな秋の気配を心待ちにして、
この暑さをやり過ごしましょう。
立秋の次候、七十二候は「寒蝉鳴(ひぐらしなく)」。
ひぐらしは夏の終わりに鳴くイメージがありますが、実は六月頃から鳴いているのだとか。
「カナカナ…」と鳴く声は涼感があり、暮れゆく夏を惜しんでいるよう。
我々は秋の訪れを楽しみにしますが、蝉は秋も深まればその姿を見せてはくれません。
その季節でしか会えないものがある。
その当たり前のことを、あらためて感じるのでした。
この季節、家々の庭や街路に見られる木槿(むくげ)の花。
早朝に咲き夕方には萎んでしまう一日花で、栄華の儚さをたとえる
「槿花一日の栄(きんかいちじつのえい)の諺でも知られています。
精一杯に開いた花弁で、木槿はひぐらしの鳴き声を聞いているでしょうか。
その瞬間に生きる生命たちは、互いの存在を認め、互いにエールをおくっているとしたら。
そこで人は傍観者でなく、その時をともに生きる自然のものとして
互いに想う存在でありたいと思いました。
この時季の風物詩に瓢箪があります。
むかしは軒先に瓢箪や糸瓜(へちま)で棚をつくり、
葉を茂らせ日除けにしていました。
近頃はあまり見かけなくなりましたが、
今もつくっているところはあるでしょうか。
「ふくべ(瓢箪)棚 ふくべ下りて 事もなし」とは、高浜虚子の句。
瓢箪棚の下で暮れゆくものを想いながら、何をするでもない、
のんびりとした時を過ごす夕涼みもよいものです。
いにしえより神霊が宿るとされ、祭具に用いられたという瓢箪。
そのくびれは吸い込んだ邪気を逃さず、末広がりの形は縁起が良いとされ、
水や酒、穀物の種などの容器のほか、お守りや魔除けにも用いられました。
その鈴なりに実る様子から家運興隆や子孫繁栄のしるしとして、
瓢箪を模した器などの工芸品や模様がつくられ、
人々は縁起物を暮らしに取り入れてきました。
瓢箪は一つの実からたくさんの種がとれることから子孫繁栄を、
また、蔓が絡み多くの実をつけることから商売繁盛を呼ぶおめでたい模様。
その描きかたもさまざまで、葉や蔓とともに描いたものや、
暮らしの道具として使用する瓢(ひさご)の状態を描いたものなどがありますが、
印伝の瓢箪模様は、一瞬それが瓢箪とはわからないほど細やかな連続模様。
手にする近さで見て初めて吉祥のしるしとわかる。
そんな奥ゆかしさも日本らしい意匠と言えるでしょう。
「ひょうたん」模様の印伝は、形や色の組み合わせがさまざま。オンラインショップで取り扱いのない商品については、印傳屋直営店へお問い合わせください。
頰を撫でるそよ風に、
ふと見た野辺の草花に、季節を知る。
あめつちの間で、ひとは千年以上も前から
季の趣を細やかにとらえ、
風物や自然の恵みを愛おしんできました。
一日一日を過ごす時の流れは、
むかしほど緩やかではない
かもしれませんが、
その感性は今も誰の心にもあるものです。
季節の移ろいと、そこに寄り添い
生きてきた
日本の暮らしと文化をなぞり、
日本人のひとつの感性として
生み出してきた印伝とともに
二十四の季をみなさまと
めぐってまいりたいと思います。